君の言葉はダイアログ Social skillsのカードをきる生き方
久しぶりに自由につらつらと書けるブログをスタートしました。
日々の気づきとか、面白かった出来事とか、心震わせた体験とか、そういうものを綴っていけたらいいなあとぼんやり考えています。
実は、大学院準備コースでAcademic Englishの勉強をしつつも、密かに「友だち」ってなんだろう?という壁に当たっていました。
平日5日間、まるで高校生のように一緒にいる仲間。
正直、もう青春はやり終えた私としてはなかなかしんどく感じてしまう時間もありました。
年齢も経験も立場の違う仲間でなんとなくグループができて、漠然と一緒に過ごす。でもやっぱり、グループの中には年齢的なギャップが埋められない人もいて、苦しい瞬間はたまに訪れる。そして心に張り付いていた「友だちってなんだろう」という想い。
まるでロンドンの地下鉄の入り口にへばりつく古新聞の如くはたはたとは動くものの微動だにせず張り付いていた。その記事は今のことだけでなく過去のことも振り返るかの如く、友だちというものを取り扱っていた。
ただある時を境に、ふと心からこの古新聞が溶けて無くなっていった。
雨が降ったんだ。
私は友だちというものに対して、とても大きな夢を抱いていた。
大きな勘違いもしていた。
その間違いを正さないまま、漠然と自分の中の孤独感を膨らませてここまできてしまっていたのだ。
私にとっての友だちは、心から信じ、愛し合い、大切に想い、相手の幸せを心から願う存在。
私はこれまで、幼少期の教育アニメのようなこの白々しくも美しい概念を友情だと思っていました。
アニメで見るような本当の「絆」がいとも簡単に築けるものだと思い、簡単に相手を信じ、愛し、大切にしてきた。
でも実際の人間関係は違う。
アニメのように表層だけで成り立っておらず、自分を犠牲にするような美しい友情もない。
小学校くらいからいじめが始まるのと同じように、実際の人間の心には様々な葛藤や妬み、苦しさ、愛と相反した複雑な感情が蠢く。これは誰かの心が汚れているわけではない。
人間が成長する過程で、感情というのはより複雑で定義しにくいものになっていくのでしょう。時にそれは本人すら気づいていない。自分だって自分の知らない一面が必ずある。そしてもちろん、それは「成長」であり、「悪意」ではない。
なのにも関わらず、私は幼少期の価値観をアップデートできずに、まっすぐで真珠のように輝く純真な友情が世界のどこかにあると思っていた。
だけど、大人になってから高校生のような生活を送ってみてはじめて気がついた。
誰も「友情」をそこまで深く捉えていないのだ。友だちというのは、なんとなく学校の中で一緒に過ごす存在。休みの日に会えたら楽しい、共通の話題で盛り上がれたら嬉しい。でもそれは、一緒に冒険に出て驚くような困難を信頼で乗り越えるようなものとは違う。もっとカジュアルで、もっと打算的で、もっと表面的だけど、もっと「簡単」なことだ。
そして、多くの人が、自分の生きてきた経験をもとに「友だち」をする。
それはAIがデータを集めて解析して、人に寄り添う会話ができることとよく似ている。
自分の考えや、自分の奥底から湧き出た愛情を渡し合うのではなく、「こういうものだ」と思った経験則からの行動で「友だち」という役割を担い、存在を認識し、行動を模倣する。
これはAIや、ゲームのダイアログとよく似ている。
キャラクターAの好きなものを10回プレゼントしたら友好度が1上がるみたいなものだ。
本当は、友だちというのはこれくらいシンプルなものだ。
毎回全ての会話、相手の表情を分析して、自分なりの解釈でベストアンサーを出そうとしていたせいで、私はひどく疲れていた。時には傷つくこともあった。自分の愛が届いている感覚を得られないことも多かった。
でもダイアログだと気づいた時、私の認識が大きく間違っていたのだと気がついた。
私が特別な、感情から湧き出る愛を丁寧に返しても、人は「友情」にそこまでのウエイトを割いていない。そして友好度が1日で5上がることもないのだ。1日の中で人間が処理できる感情の量や、思考の量には限界がある。だから人は、「上手く」生きるためにダイアログやカードを活用する。それなのに私はそれを知らずに生きていました。
友だちというのは、ただ淡々と長い時間をかけて、相手が好きなことを小さく積み上げればいいのだ。嫌なことはしないほうがいい。でも毎回スペシャルな答えで相手を喜ばせる必要もないのだ。それはどう考えても、やり過ぎだった。
そして、時間をかけるもの。
私は急ぎすぎていた。途方もない、遠い果てのような時間を淡々と過ごしながら、小さな愛を積み重ねるのだ。友好度が100になってはじめて、「友人」なんだ。
ダイアログというと味気ないかもしれない。
でも毎日の些細な会話をオリジナルで愛に溢れたものにしていたら、人間は疲れてしまう。私も疲れてしまう。だからsocial skillをカードゲームのように捌いていけばいいのだ。
このカードが出たらこのカード、と手持ちの札から正解にごく近いものを出す。
そうしたら、疲れたり過度に傷つくこともない。そして上手い「遊び方」を徐々に知る。
負け方、勝ち方、戦略的でお互いが気分良く過ごせるカードの切り方というのがある。
そうやって生きていけばよかったんだ。
そうすれば、私のsocial batteryは簡単に尽きずに済む。
そして本当に心が動いた時、本当に誰かを守りたい時に、自らの言葉で愛を連ねたらいい。
そしておそらく、多くの人がこれに無意識に気づいて幼稚園や小学校から少しずつ手札を増やし自分なりのデッキを組み、「上手い遊び方」でコミュニケーションしてきたのだ。
人は仕事や勉強において効率を考える。
それは生産性を高める素晴らしいものだとされている。
ではコミュニケーションはどうだろう?
時短したら、とても愛のない非道な人間のように聞こえる。
でも本当はみんな知ってるはずでしょう?
この距離感の友人への誕生日プレゼントはこれ、大切な友だちにかけるべき言葉はこれ。
なんとなく自分のセオリーややり方を上手く築いてきた人は多いんじゃないかと思う。私はそれをすごく素敵なことだと思う。人間が成長して、相手を思いやれているからこその「経験値」ゆえの成果だ。愛ではないなんてことはない。傷つけなければ、それは愛なのだ。
この高い友情への要求が消えて、自分も真実の愛を返す作業に心血を注がなくなってからというもの、心がだいぶ軽くなった。「他者から理解されない」という感覚も徐々に薄れつつある。
相手のカードと自分のカードを見比べて、今うまくいってるよねってわかるようになったのだ。そう、今まで私は、相手がみんな一緒にプレイしてるカードゲームのカードを出してるのに、私が思う宝物(例えばどんぐりとか、ピカピカの石とか)を出していたんだと思う。
でも今はわかる。
時々大好きな友だちと特別にレアカードを出してニヤリと笑う瞬間を。